19時―― 書斎でルシアンとイレーネはテーブルに向かい合わせで着席していた。「ほ、本当に……こちらのお料理を頂いてもよろしいのでしょうか?」イレーネは並べられた豪華な食事とルシアンの顔を交互に見ながら尋ねる。数えただけで料理の種類は7種類もあった。「勿論だ。……本来なら、ここでワインでもつけるところだが……今夜は大事な話があるから、悪いがアルコールは無しだ」「ワインだなんて……! とんでもありません! 私はお水で結構ですので、どうぞお気遣いなさらないで下さい。まぁ……グラスが素敵だと、普段のお水もとても美味しそうに見えますね」イレーネはグラスに注がれた水を見つめ、そんな彼女を呆れた様子で見つめるルシアン。「イレーネ様……なんと、健気な……それ程までに御苦労されていたのですね……」ある程度の事情は把握しているリカルドが給仕の手を止めて、ハンカチで目頭を抑える。「一体、何なんだ? この雰囲気は……まぁいい。食事を始めようか?」額に手を当て、ため息をつくとルシアンはイレーネに食事を勧めた。「はい! ありがとうございます!」元気に返事をすると、イレーネは早速フォークとナイフを手にした。「ふ〜ん……」イレーネが食事をする様子を観察しながら、ルシアンも料理を口に運ぶ。(少々……というか、かなり風変わりな女だと思っていたが……テーブルマナーは完璧だな。シエラ家なんて貴族は聞いたこともないが、それなりに教育は受けてきたのかもしれない)イレーネを育ててくれた祖父は、彼女がどこへ行っても恥じないように貴族令嬢の行儀作法を身につけさせた。それだけではなく、貧しいながらも学校にも通わせてくれたのだった。「早速だが、イレーネ嬢。食事をしながらで構わないので話をさせてくれ」ルシアンが声をかける。「はい、マイスター伯爵様」笑みを浮かべて返事をする。「リカルドの話によると、君は婚姻届に迷わずサインしたと言うが……本当に構わないのか? この結婚は正式なものではない。期間限定の結婚で、1年後には離婚するんだぞ?」「はい、伺っております。毎月30万ジュエルのお給金を頂ける上、退職金、それに家のプレゼント。そして次の就職先の紹介状まで書いて頂けるのですよね?」「は? 君は一体何を言ってるんだ? 俺はそんなことを聞いているわけじゃない。俺と婚姻して離婚をする
食事会の後――イレーネを先程の客室まで案内してきたリカルドが尋ねてきた。「イレーネさん。着替えの用意はあるのでしょうか?」「着替えですか? いいえ、ありません。もともと日帰りの予定でしたから」「ああ! そうでしたよね!」突如、リカルドが顔を両手で覆い隠した。「あの……リカルド様? どうされましたか?」「申し訳ございません……私を5時間も待っていたせいで、汽車に乗って帰ることが出来なくなってしまったのですよね……? 切符も無駄にさせてしまいましたが……御安心下さい!」突如、リカルドは顔を覆っていた両手を外した。「本日は日当として、イレーネさんに3万ジュエルをお支払い致しましょう。5時間も待たせてしまったお詫びと、汽車代として明日お渡ししますね」「3万ジュエルですか!? ほ、本当にそんなに沢山頂けるのでしょうか?」イレーネの顔が興奮のあまり、赤くなる。「ええ、私の言葉に二言はありません」「ありがとうございます! これで辻馬車を使うことが出来ます」実は今までイレーネは口にはしなかったが、両足に豆ができていたのだ。その足で長距離を歩かなくてすむのだから。「イレーネさん……本当に……うう……あなたという女性は……苦労人だったのですね……」リカルドの目がウルウルし始めた。イレーネに出会ったことで彼は涙もろい青年になっていたのだ。「いいえ、苦労だなんて思っていません。世の中にはもっと苦労している人々が大勢いるのですから。それに本日は最高の仕事に就くことが出来たのですから。今、とても幸せな気分です」あくまで前向きなイレーネ。「イレーネさん……絶対に、1年後……素晴らしい就職先を探してさしあげますね?」「ありがとうございます。リカルド様」そのとき、リカルドはあることを思い出した。「あ、そういえば……着替えの用意が無かったとお話されておりましたよね?」「ええ、そうです。でも平気です。1日くらい同じ服を着ていても」「いいえ、そういう訳にはまいりません。……そうですね。すぐに戻ってまいりますので少しお待ち下さい」リカルドは何かを考えた様子で返事をすると、足早に部屋を出ていった。「……足も痛むし……少し座って待たせていただきましょう」イレーネは客室に備え付けのソファに腰掛けると、静かに待っていた。5分ほど待っていると、大きな衣装ケ
翌朝、6時にイレーネは目が覚めた。「う〜ん……やっぱり、寝心地の良いベッドはいいわね。面接を受けに来ただけなのに、こんな風におもてなしを受けるとは思わなかったわ」ベッドの上で伸びをすると、イレーネは足裏に出来た豆の具合を見た。「……押すとまだ痛いけど、これくらいなら大丈夫そうね」持っていた端切れで手早く足の手当をすると、イレーネは早速昨夜用意してもらったデイ・ドレスに着替え始めた――****――7時約束通り、客室に迎えに来たリカルドと共に2人は誰もいない廊下を歩いていた。「誰もいませんね……?」辺を見渡しながら、イレーネが前を歩くリカルドに尋ねた。「ええ。ルシアン様の言いつけで、この時間他の使用人たちは別の場所で仕事をしています。その……まだイレーネ様を人目につかないように誘導するように言われておりますので」リカルドが言いにくそうに説明する。(どうしよう……気分を害されたりはしていないだろうか……?)心配になったリカルドはチラリとイレーネの様子をうかがう。「なるほど、確かにそうですね。ルシアン様から私のことが正式発表されるまでは、誰にも見られないほうが良いですね」「そうですか? ご理解して頂きありがとうございます」イレーネが全く気にする素振りもなく返事をしたことで、リカルドは安堵のため息をついた。「ところで……イレーネさん」「はい、何でしょう?」「そのデイ・ドレス……良くお似合いですよ?」「本当ですか? ありがとうございます。サイズも丁度良かったみたいです。こんなに素敵なドレスを貸して頂き、感謝しております。後日、きちんとクリーニングしてお返しいたしますね」その言葉に慌てるリカルド。「いえ! そんなことなさらなくて大丈夫です! こちらで洗濯は致しますので」「ですが……それでは申し訳なくて……」「本当に気になさらないで下さい。あ、書斎に到着しましたよ。お待ち下さい」リカルドは扉の前に立つと、ノックした。――コンコン「ルシアン様。イレーネさんをお連れしました」『入ってくれ』扉の奥でルシアンの声が聞こえる。「失礼いたします」リカルドが扉を開けると、すでに部屋ではルシアンがテーブルに向かって座っていた。「おはよう、イレーネ嬢。良く眠れたか?」「おはようございます、ルシアン様……あ、いえ。マイスター伯爵様。
朝食後――イレーネとルシアンは2人きりでリカルドが淹れてくれた紅茶を飲んでいた。「ルシアン様、一晩の宿と食事まで用意して頂きありがとうございました。これから1年間、誠心誠意を込めてお仕えさせていただきます」背筋を伸ばしたイレーネは真剣な眼差しでルシアンを見つめる。「そうか? ではマイスター家の現当主である俺の祖父に会う際は、しっかり妻の役を演じてもらうぞ? 祖父の信頼を得られて、俺が正式な後継者に相応しいと認められた暁には臨時ボーナスに、さらに給金を上乗せしよう」「本当ですか? ありがとうございます! ルシアン様が後継者になれるように私、精一杯頑張ります!」お金の話になると、遠慮が無くなるイレーネ。それだけ彼女は追い詰められていたのだ。「そ、そうか? ……今まで悪いと思って聞かなかったが……ひょっとすると、君はお金に困っているのか?」「え、ええ……そうなのです……お恥ずかしいお話ですが……」イレーネはうつむき加減に返事をする。「まぁ……普通に考えれば、お金の為に契約結婚に同意するような女性はいないだろうな。何しろ離婚歴がある女性は男性からの評判は…落ちるからな。今後再婚するのも難しくなるだろう…」少しだけ罪悪感を感じるルシアン。だからと言って本当の伴侶を持つ気など、彼には一切無かった。「そのような御心配はしていただかなくても大丈夫です。私の結婚のことで気をもむような身内は誰もおりません。もとより、私のような落ちぶれた貴族を妻に望む男性はいるはずもありませんから。第一、私と結婚しては相手の方に借金を背負わせてしまうことにもなりますので」堂々と自分のことを語るイレーネは、ルシアンの目に新鮮に写った。「唯一の肉親を亡くしていることはリカルドから聞いていたが……君には借金があったのか?」「はい……元々シエラ家は貧しい男爵家だったのですが、祖父が病に倒れてからはお医者様に診ていただくために増々借金が増えてしまったのです。なので本当に今回の雇用には感謝しているのです。借金返済の為に、屋敷を手放そうと考えておりましたので。ルシアン様とリカルド様のお陰で宿無しにならずにすみました。本当にありがとうございます」再び御礼の言葉を述べるイレーネ。だが、その話はルシアンにとって、あまりにも衝撃的だった。「な、何?! それでは君は実家を失うということか?
9時―― ルシアンは書斎でリカルドに尋問していた。「全く……お前は、どうして肝心なことを言わない? イレーネ嬢に借金があって、住む場所も無くしそうだということを何故黙っていた?」「申し訳ございません。ただ、こちらは非常にデリケートな話でありまして……私はイレーネさんのマイナス評価になりそうな部分を伏せておきたかったのです。プライバシーの問題でもありましたし。いずれ、ご本人の口からルシアン様に告げられるだろうと思いましたので……」その言葉にルシアンはため息をつく。「……別に、そんなことで彼女の評価を下げたりなどしない。遊んで自ら借金を作ってしまうような女性では無いことくらい、見て分かったしな」すると、リカルドが意味深な笑みを浮かべる。「おやぁ……ルシアン様。もうイレーネさんの人となりが分かったような口ぶりですね?」「な、何だ? その顔は……?」「いえ、何でもありません。ですが……素敵な女性だとは思いませんか? 外見もさることながら、性格も」「……だが、所詮は女だ」ルシアンは視線をそらせる。「ルシアン様、ですが……」「それよりもだ! どういうことだ? 何故彼女があのドレスを着ていたのだ?」「それは、イレーネさんが着替えを持ってきていなかったからです。でもよくお似合いでした。そうは思いませんでしたか?」「そんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは、何故彼女にあのドレスを用意した? 他にも女性用の服があるはずだろう?」リカルドを睨みつけるルシアン。「あるのかもしれませんが、女性用の服を管理しているのはメイド達です。彼女たちに用意させられるわけにはいきませんでした。私が準備できたのはあの方が残されたドレスだったからです。その管理を任せたのはルシアン様ではありませんか」「あれは別に保管しろという意味で言ったわけじゃない。全てお前に任せるという意味で託したんだ。そこには捨てておけという意味だってあるだろう?」「そんな……私の独断であの方のドレスを捨てるなど出来るはず無いではありませんか。捨ててほしかったなら、はっきりそう仰って下さい」「……もういい! この話は終わりだ。それで、今肝心のイレーネ嬢はどうしている?」書類の山に目を通しながらルシアンは尋ねた。「はい、『コルト』へお戻りになられました。2日後に必ず戻ってまいりますと話されてお
ガラガラと走り続ける辻馬車の中で、イレーネは窓から外の景色を上機嫌で眺めていた。「もうすぐ、私はこの町に住むことになるのね……1人で行動できるように道を覚えておかなくちゃ。フフフ……それにしても夢みたいだわ。田舎者の私がこんな大都会で暮らすことになるなんて。本当にリカルド様とルシアン様には感謝をしないと」イレーネの心はこれからの新生活に浮き立ち……駅に辿り着く迄の間、ずっと窓の外を注視し続けるのだった。 馬車が駅前広場に到着したのは9時半を過ぎていた。「どうもありがとうございました」御者に馬車代、1500ジュエルを支払うとイレーネは駅前に降り立つ。「昨日も感じたけど、土ぼこりが立たない町というのは新鮮ね。おかげで、お借りしたドレスが汚れなくて済むもの」イレーネは自分の着ているドレスを見ると、次に手帳を取り出した。ここには時刻表が記されている。昨日この駅に降り立った時に、彼女が事前に時刻表をメモしておいたのだ。「今が9時半だから……次の汽車まで後1時間くらいあるわね……どこかでお昼でも買っておこうかしら……あら? あの方は……?」噴水前で、昨日イレーネをマイスター家まで連れて行ってくれた青年警察官が年老いた老人に道を教えている姿が目に入った。「そうだわ、折角なので昨日のお礼を伝えましょう」そこでイレーネは少し離れた場所で、道案内が終わるのを待つことにした。やがて老人は道が分かったのか、お辞儀をすると背を向けて去って行く。「道案内が終わったようね」すると、青年警察官の方がイレーネの視線に気付いた様子で近付いてきた。「あの……もしやあなたは……?」「こんにちは、お巡りさん。昨日はお仕事中なのに、私をマイスター伯爵家まで連れて行っていただき、心より感謝いたします」笑顔で挨拶するイレーネ。「ああ、やっぱりあなただったのですね。見事なブロンドの髪だったので、もしやと思ったのですが。もしかして、今から帰るのですか?」「はい、そうです。でも、2日後にはここに戻ってまいりますが」「え? そうなのですか?」その言葉に目を丸くする警察官。「はい。私、この町で暮らすことが昨日決まったのです。なので、これからまたどこかでお世話になることがあるかもしれませんね? その時はまたどうぞよろしくお願いいたします。お巡りさん」「そうですね。困ったことが
汽車に乗って3時間後――『コルト』の駅に降り立ったイレーネ。「今の時刻は13時半ね……ルノーは弁護士事務所にいるかしら?」イレーネは屋敷を処分する法的手続きをルノーに頼もうと考えていたのだ。「ルノーがいなくても、誰かしらいるかもしれないものね。とりあえず訪ねてみましょう」そしてイレーネは豆が出来た足を引きずるように、ルノーが勤務する弁護士事務所に向かった――**** 駅から大通りを歩いて10分程の場所にルノーが勤務する弁護士事務所はあった。イレーネは扉の前に立つと、早速ノックをした。――コンコン「はい、どちら様でしょうか? え!? イレーネ!?」扉を開いたのは偶然にもルノーだった。「まぁ、ルノー。丁度良かったわ。あなたに頼みたいことがあったのよ」笑みを浮かべる。「イレーネ、な、何故ここに……!? いや、それよりも一体昨日はどうしたんだ? 仕事の終わった後、君の家に行っても留守だったじゃないか。あのとき、どれだけ俺が驚いたと思っているんだ?」ルノーは余程心配していたのか、矢継ぎ早に質問してくる。「待って、落ち着いてちょうだい。ルノー、実はあなたにお願いしたいことがあるのよ」「お願い? 俺に?」「ええ、実は……」その時――「ルノー。誰かお客様なの?」部屋の奥で声が聞こえ、ウェーブのかかったブラウンの髪の若い女性が現れた。「あ! クララ……」ルノーがうろたえた様子で女性の名を呼ぶ。クララと呼ばれた女性はイレーネを見ると眉をひそめて話しかけてきた。「あの、失礼ですがどちら様ですか? ここはジョンソン弁護士事務所ですけど? お客様でしょうか?」「い、いや。彼女は……客ではなく……」「はい、客です。本日は幼馴染のルノーに用事があって、訪ねました」言葉を濁すルノーに代わり、イレーネが返事をする。「え……? 幼馴染……? まさか、あなたはイレーネ・シエラ様ですか?」「はい、そうです。もしかしてルノーから私の話を聞いているのですか?」笑顔でクララに尋ねるイレーネ。「ええ、少しだけなら。……そうですか。あなたがあの、イレーネ様なのですね。それで、一体今日はルノーに何の用があるのですか?」「はい、それは……」そこへルノーが二人の間に割って入ってきた。「イレーネ、実は今急ぎの仕事で忙しいんだ。また今度にしてもらってもい
14時過ぎにイレーネは自分の屋敷に到着した。「やっぱり、馬車を使うと楽ね~。だけど、こんなに贅沢したら今にバチが当たってしまいそうだわ」質素倹約を心がけているイレーネにとって、馬車を使うことはとても贅沢なことであり、後ろめたい気分にもさせてしまう。「でも、これは足の裏に出来た豆のせい……そう、やむを得ずのことよ」イレーネは自分にそう言い聞かせると扉を開けて屋敷の中へ入り、早速荷造りの準備を始める為に自室へ向かった。「とりあえず、まずはこの服を着替えなくちゃね。片付けの最中に汚したり、破いたりしたら大変だもの。きっと今の私には弁償も出来ないくらい高級ドレスに違いないものね」そこでイレーネは衣装箱から自分の粗末な服を取り出すと、早速着替えを始めた――**日が暮れ始めた頃――「ふぅ……荷造りはこんなものかしら?」荷造りを終えたイレーネは椅子に腰掛けると、ため息をついた。彼女がマイスター伯爵家に持っていく荷物はトランクケース2つ分だけだった。一つは今自分が持っている全ての服。もう一つには祖父の形見の品や、2人の思い出の写真。そして数冊の本。「それにしても、持っていく荷物がたったこれだけだったなんて……こんなことなら1日もあれば準備なんて十分だったかしら?」そこまで考えていたとき……――コンコンがらんどうな屋敷の中に、ドアノッカーの音が響き渡った。「多分、ルノーね」イレーネは椅子から立ち上がると、玄関へ向かった。扉についているドアアイを覗き込むと、やはり訪ねてきたのはルノーだった。「いらっしゃい、ルノー」イレーネは扉を開けた。「良かった……今日はちゃんといてくれたんだな? 本当に昨夜は驚いたよ。訪ねても君がいないんだものな。驚きで心臓が止まるかと思った」「大袈裟ね、ルノーは。どうぞ入って」クスクス笑いながらイレーネはルノーを屋敷に招き入れた。「それで、俺に大事な話って何だ? いや、その前に昨夜一体何があったんだ? どこにいたんだよ」椅子に座るなり、ルノーは矢継ぎ早に質問してくる。「ルノーはせっかちねぇ。はい、まずはお茶でもどうぞ」イレーネは淹れたての紅茶をテーブルに置くと、自分も向かい側の席に座った。「あ、ああ。ありがとう」気を落ち着かせるためにルノーは紅茶を口にする。「ルノー。あなたは私の幼馴染であり、弁護士で
――10時半ルシアンとイレーネは、とある場所にやってきていた。「まぁ……! なんて素敵なお屋敷なのでしょう!」イレーネが目の前に建つ屋敷を見て感動の声を上げる。「芝生のお庭に、真っ白い壁に2階建ての扉付きの窓……。まぁ! あそこには花壇もあるのですね!」結局ルシアンはイレーネの言うことを聞いて、リカルドがプレゼントすると約束した空き家に連れてきていたのだ。『ミューズ』通りの1番地に建つ屋敷に……。「そ、そうか。そんなに気に入ったのか?」引きつった笑みを浮かべながらルシアンは返事をする。(くそっ……! もう、二度とこの場所には来たくはなかったのに……まさか、こんなことになるとは……! 本当にリカルドの奴め……恨むからな!)心のなかでルシアンはリカルドに文句を言う。「だ、だがイレーネ。この屋敷はもう古い。しかも郊外から少し離れているし……暮らしていくには何分不便な場所だ。家が欲しいなら、もっと買い物や駅に近い便利な場所のほうが良いのではないか? 俺が新しい家をプレゼントしよう」何としてもこの場所から引き離したいルシアン。けれど、イレーネは首を振る。「いいえ、新しい家だなんて私には勿体ない限りです。この家がいいです。だって……なんとなく生家に似ているんです。私の家もこんな風にのどかな場所に建っていました。何だか『コルト』に住んでいた頃を思い出します」「イレーネ……」ルシアンにはイレーネの姿がどことなく寂しげに見えた。しかし、次の瞬間――「それに、こんなにお庭が広いのですから畑も作れそうですしね!」イレーネは元気よくルシアンを振り返った。「な、何!? 畑だって!?」「はい、そうです。ちょうどあの花壇のお隣の土地が空いているじゃありませんか? そこを耕すのです。最初は簡単なトマトから育てるのが良いかも知れませんね。カブやズッキーニ、パセリなどは育てやすく簡単に増えます。あ、ハーブも必要ですね。バジルや、ローズマリー、それに……」(まずい! このままではまた1時間近く話しだすかもしれない!)指折り数えるイレーネにルシアンは必死で止める。「わ、分かった! そんなにここが気に入ったなら……この家を今からプレゼントしておこう。何しろ次の当主は俺に確定したようなものだからな」本当なら、出来ればこの屋敷をイレーネに渡したくなかった。何故な
「え? 今日1日、私の為に時間を割く……? 今、そう仰ったのですか?」朝食の席で、イレーネは向かい合って座るルシアンを見つめた。「ああ、そうだ。俺は無事に祖父から次期後継者にすると任命された。こんなに早く決まったのはイレーネ、君のお陰だ。あの気難しい祖父に気に入られたのだから」「ありがとうございます。でも私は何もしておりません。ただ伯爵様とおしゃべりをしてきただけですから。ルシアン様が選ばれたのは元々次期後継者に相応しい方だと伯爵様が判断したからです。それにゲオルグ様が失態を犯してしまったこともルシアン様の勝因に繋がったのだと思います」「そうか? そう言ってもらえると光栄だな」元々次期後継者に相応しいと言われ、満更でもないルシアン。「それで、イレーネ。今日は何をしたい? どこかに買い物に行きたいのであれば、連れて行ってやろう。何でも好きなものをプレゼントするぞ。臨時ボーナスとしてな」すると、食事をしていたイレーネの手が止まる。「本当に……何でもよろしいのでしょうか?」真剣な眼差しで見つめてくるイレーネ。「あ? あ、ああ……もちろんだ」(何だ? い、一体イレーネは俺に何を頼んでくるつもりなのだ……?)ルシアンはゴクリと息を呑んだ――****「お呼びでしょうか? ルシアン様」食後、書斎に戻ったルシアンはリカルドを呼び出していた。「ああ……呼んだ。何故俺がお前を呼んだのかは分かるか?」ジロリとリカルドを見るルシアン。「さ、さぁ……ですが何か、お叱りするために呼ばれたのですよね……?」「ほ〜う……中々お前は察しが良いな……」ルシアンは立ち上がると窓に近付き、外を眺めた。「ル、ルシアン様……?」「リカルド、そう言えばお前……イレーネ嬢と契約を交わした際に空き家を一軒プレゼントすると伝えてたよな?」「ええ、そうです。何しろイレーネさんは生家を手放したそうですから。ルシアン様との契約が終了すれば住む場所を無くしてしまいますよね?」「ま、まぁ確かにそうだな……」『契約が終了すれば』という言葉に何故かルシアンの胸がズキリと痛む。「そこで、私が契約終了時にルシアン様から託された屋敷をプレゼントさせていただくことにしたのです。でも、今から渡しても良いのですけ……えぇっ!? な、何故そんな恨めしそうな目で私を見るのですかぁ!?」ルシア
――22時「アハハハハ……ッ!」ルシアンの書斎にリカルドの笑い声が響き渡る。「何がおかしいんだ? 俺は50分近くもイレーネの話に付き合わされたのだぞ?」「よ、よく耐えられましたね……今までのルシアン様では考えられないことですよ。あ〜おかしい……」リカルドは余程面白かったのか、ハンカチで目頭を押さえた。「だが、そんな話はどうでもいい。問題だったのはゲオルグのことだ。祖父に呼ばれていたばかりか、イレーネと出会うとは……思いもしていなかった」腕組みするルシアン。「ええ、そうですね。でも噂に寄るとゲオルグ様は頻繁に『ヴァルト』に来ているらしいですよ。特に『クライン城』はお気に入りで訪れているそうです。あの城で働いている同僚から聞いたことがあります」「何? そうだったのか? そういう大事なことは俺に報告しろ」「ですが、ルシアン様はゲオルグ様の話になると機嫌が悪くなるではありませんか。それなのに話など出来ますか?」「そ、それでもいい。今度からゲオルグの情報は全て教えろ」「はい、承知いたしました。でも良かったではありませんか?」「何が良かったのだ?」リカルドの言葉に首を傾げるルシアン。「ええ。イレーネ様がゲオルグ様に手を付けられることが無かったことです。何しろあの方の女性癖の悪さは筋金入りですから。泣き寝入りした女性は数知れず……なんて言われていますよ?」「リカルド……お前、中々口が悪いな。……まぁ、あいつなら言われて当然か」ルシアンは苦笑する。「それだけではありません。あの方は自ら墓穴を掘ってくれました。よりにもよって賭け事が嫌いな伯爵様の前で、カジノ経営の話を持ち出すのですから。しかもマイスター家の所有する茶葉生産工場を潰してですよ!」「ず、随分興奮しているように見えるな……リカルド」「ええ、それは当然でしょう? 私は以前からあの方が嫌……苦手でしたから。その挙げ句に自分の立場も顧みず、図々……散々事業に口出しをされてきたではないですか?」「確かにそうだな」(今、リカルドのやつ……図々しいと言いかけなかったか?)若干、引き気味になりながら頷くルシアン。「ですが、これでもう次期当主はルシアン様に決定ですね。何しろ、ゲオルグ様にはルシアン様の補佐をしてもらうことにすると伯爵様がおっしゃられていたのですよね?」「ああ、そうだ。祖父
2人はソファに向かい合わせに座って話をしていた。ただし、イレーネが一方的に。「……そうそう。そこで出会った猫なのですが、毛がふわふわで頭を撫でて上げるとゴロゴロ喉を鳴らしたのですよ。あまりにも可愛くて、持っていたビスケットを分けてあげようと思ったのです。あ、ちなみにそのクッキーの味はレモン味だったのでしす。子猫にレモンなんて与えても良いのか一瞬迷いましたが、美味しそうに食べていましたわ」「そ、そうか……それは良かったな……」ルシアンは引きつった笑みを浮かべながらイレーネの話をじっと我慢して聞いていた。(いつまでイレーネの話は続くのだ? もう47分も話し続けているじゃないか……。こんなにおしゃべりなタイプだとは思わなかった……)チラリと腕時計を確認しながらルシアンは焦れていた。早く祖父との話を聞きたいのに、いつまで経ってもその話にならない。何度か話を遮ろうとは考えた。しかし、その度にメイド長の言葉が頭の中で木霊する。『自分の話をするのではなく、女性の話を先に聞いて差し上げるのです』という言葉が……。――そのとき。ボーンボーンボーン部屋に17時を告げる振り子時計の音が鳴り響いた。その時になり、初めてイレーネは我に返ったかのようにルシアンに謝罪した。「あ、いけない! 私としたことがルシアン様にお話するのが楽しくて、つい自分のことばかり話してしまいました。大変申し訳ございませんでした」「何? 俺に話をするのが楽しかったのか? それはつまり俺が聞き上手ということで良いのか?」ルシアンの顔に笑みが浮かぶ。「はい、そうですね。生まれて初めて、避暑地でリゾート気分を味わえたので、つい嬉しくて話し込んでしまいました」「そうか、そう思ってもらえたなら光栄だ。では、重要な話に入るその前に……ブリジット嬢とどのような会話をしたのだ?」ルシアンはブリジットとの会話が気になって仕方がなかったのだ。「え? ブリジット様とですか?」首を傾げるイレーネ。「ああ、そうだ。随分彼女と親しそうだったから……な……」そこまで口にしかけ、ルシアンは自分が失態を犯したことに気づいた。『女性同士の会話にあれこれ首を突っ込まれないほうがよろしいかと思います』(そうだ! メイド長にそう言われていたはずなのに……! ついブリジット嬢と交わした会話に首を突っ込もうとしてし
「イレーネ……一体どういうことなのだ? 俺よりもブリジット嬢を優先して応接室で話をしているなんて……」ルシアンはペンを握りしめながら、書類を眺めている。勿論、眺めているだけで内容など少しも頭に入ってはいないのだが。「落ち着いて下さい。ブリジット様に嫉妬している気持ちは分かりますが……」リカルドの言葉にルシアンは抗議する。「誰が嫉妬だ? 俺は嫉妬なんかしていない。イレーネが、いやな目に遭わされていないか気になるだけだ。ブリジット嬢は……その、気が強いからな……」「イレーネ様がブリジット様如きにひるまれると思ってらっしゃいますか?」「確かにイレーネは何事にも動じない、強靭な精神力を持っているな……」リカルドの言葉に同意するルシアン。「イレーネ様は良く言えばおおらか、悪く言えば図太い神経をお持ちの方です。その様なお方がブリジット様に負けるはずなどありません」メイド長が胸を張って言い切る。「た、確かにそうだな……」この3人、イレーネとブリジットに少々失礼な物言いをしていることに気づいてはいない。「だいたい、ブリジット様の対応を出来るのはこのお屋敷ではイレーネ様しかいらっしゃらないと思いますよ?」「ええ、私もそう思います、ルシアン様。本当にイレーネ様は頼りになるお方です」メイド長は笑顔で答える。「確かにそうだな……。だが、一体2人でどんな話をしていたのだろう……?」首をひねるルシアンにメイド長が忠告する。「リカルド様、女性同士の会話にあれこれ首を突っ込まれないほうがよろしいかと思います。そして自分の話をするのではなく、女性の話を先に聞いて差し上げるのです。聞き上手な男性は、とにかく女性に好かれます」「え? そうなのか?」「はい、そうです。詮索好きな男性は女性から好ましく思われません。はっきり言って好感度が下がってしまいます。逆に自分の話を良く聞いてくれる男性に女性は惹かれるのです」「わ、分かった……女性同士の会話には首を突っ込まないようにしよう。好感度を下げるわけにはいかないからな。そして女性の話を良く聞くのだな? 心得た」真面目なルシアンはメイド長の言葉をそのまんま真に受ける。イレーネとの関係が契約で結ばれているので、好感度など関係ないことをすっかり忘れているのであった。「では、私はこの辺で失礼致します。まだ仕事が残っておりま
イレーネとブリジットは2人でお茶を飲みながら応接室で話をしていた。「それにしても絵葉書を貰った時には驚いたわ。まさかルシアン様のお祖父様が暮らしているお城に滞在していたなんて」「驚かせて申し訳ございません。ですが、お友達になって下さいとお願いしておきながら自分の今居る滞在先をお伝えしておかないのは失礼かと思いましたので」ニコニコしながら答えるイレーネ。「ま、まぁそこまで丁寧に挨拶されるとは思わなかったわ。あなたって意外と礼儀正しいのね。それで? 『ヴァルト』は楽しかったのかしら?」「ええ、とても楽しかったです。とても自然が美しい場所ですし、情緒ある町並みも素敵でした。おしゃれな喫茶店も多く、是非ブリジット様とご一緒してみたいと思いました」「あら? 私のことを思い出してくれたのね?」ブリジットはまんざらでもなさそうに笑みを浮かべる。「ええ、勿論です。何しろブリジット様は素敵な洋品店に連れて行っていただいた恩人ですから」「そ、そうかしら? あなったて中々人を見る目があるわね。今日ここへ来たのは他でもないわ。実は偶然にもオペラのチケットが3枚手に入ったのよ。開催日は3か月後なのだけど、世界的に有名な歌姫が出演しているのよ。彼女の登場するオペラは大人気で半年先までチケットが手に入らないと言われているくらいなの」ブリジットがテーブルの上にチケットを置いた。「まぁ! オペラですか!? 凄いですわね! チケット拝見させていただいてもよろしいですか?」片田舎育ち、ましてや貧しい暮らしをしていたイレーネは当然オペラなど鑑賞したことはない。「ええ、いいわよ」「では失礼いたします」イレーネはチケットを手に取り、まじまじと見つめる。「『令嬢ヴィオレッタと侯爵の秘密』というオペラですか……何だか題名だけでもドキドキしてきますね」「ええ。恋愛要素がたっぷりのオペラなのよ。女性たちに大人気な小説をオペラにしたのだから、滅多なことでは手に入れられない貴重なチケットなの。これも私の家が名家だから手に入ったようなものよ」自慢気に語るブリジット。「流石は名門の御令嬢ですね」イレーネは心底感心する。「ええ、それでなのだけど……イレーネさん、一緒にこのオペラに行かない? 友人のアメリアと3人で。そのために、今日はここへ伺ったのよ」「え? 本当ですか!? ありが
「一体どういうことなのだ? ブリジット嬢には手紙を出しているのに、俺に手紙をよこさないとは……」「ああ、イレーネさん。イレーネさんにとっては、私たちよりも友情の方が大切なのでしょうか? この私がこんなにも心配しておりますのに……」ルシアンとリカルドは互いにブツブツ呟きあっている。「あ、あの〜……それでブリジット様はいかが致しましょうか? イレーネ様は今どうなっているのだと尋ねられて、強引に上がり込んでしまっているのですけど……やむを得ず、今応接室でお待ちいただいております」オロオロしながらフットマンが状況を告げる。「何ですって! 屋敷にあげてしまったのですか!?」「何故彼女をあげてしまうんだ!!」リカルドとルシアンの両方から責められるフットマン。「そ、そんなこと仰られても、私の一存でブリジット様を追い返せるはず無いではありませんか! あの方は由緒正しい伯爵家の御令嬢なのですよ!?」半分涙目になり、弁明に走るフットマン。「むぅ……言われてみれば当然だな……よし、こうなったら仕方がない。リカルド、お前がブリジット嬢の対応にあたれ」「ええ!? 何故私が!? いやですよ!」首をブンブン振るリカルド。「即答するな! 少しくらい躊躇したらどうなのだ!?」「勘弁してくださいよ。私だってブリジット様が苦手なのですよ!?」「とにかく、我々ではブリジット様は手に負えません。メイドたちも困り果てております。ルシアン様かリカルド様を出すように言っておられるのですよ!」言い合う2人に、オロオロするフットマン。「「う……」」ブリジットに名指しされたと聞かされ、ルシアンとリカルドは同時に呻く。「リカルド……」ルシアンは恨めしそうな目でリカルドを見る。「仕方ありませんね……分かりました。私が対応を……」リカルドが言いかけたとき――「ルシアン様! ご報告があります!!」突然、メイド長が開け放たれた書斎に慌てた様子で飛び込んできた。「今度は何だ? 揉め事なら、もう勘弁してくれ。ただでさえ頭を悩ませているのに」頭を抱えながらメイド長に尋ねるルシアン。「いいえ、揉め事なのではありません。お喜び下さい! イレーネ様がお戻りになられたのですよ!」「何だって! イレーネが!?」ルシアンが席を立つ。「本当ですか!?」リカルドの顔には笑みが浮かぶ。「
ゲオルグがマイスター伯爵に怒鳴られ、逃げるように城を去っていった翌日――イレーネは馬車の前に立っていた。「……本当にもう帰ってしまうのか? 寂しくなるのぉ……」外までイレーネを見送りに出ていた伯爵が残念そうにしている。「そう仰っていただけるなんて嬉しいです。けれど、お城の見学も十分させていただきましたし何よりルシアン様が待っているでしょうから。恐らく今頃私のことを心配していると思うのです」(きっとルシアン様は私が伯爵様と良い関係を築けているか心配しているはず。ゲオルグ様と伯爵様の会話の内容も報告しないと)イレーネは使命感に燃えていた。しかし、内情を知らないマイスター伯爵は彼女の本当の胸の内を知らない。「なるほど、そうか。2人の関係は良好ということの証だな。ルシアンもきっと、今頃イレーネ嬢の不在で寂しく思っているに違いない。なら、早く顔を見せてあげることだな」「はい。早くルシアン様の元に戻って、安心させてあげたいのです」勿論、これはイレーネの本心。何しろ、ルシアンを次期当主にさせる為の契約を結んでいるのだから。「何と! そこまで2人は思い合っていたのか……これは引き止めて悪いことをしたかな? だが、この様子なら安心だ。ルシアンもようやく目が覚めたのだろう。どうかこれからもルシアンのことをよろしく頼む」伯爵は笑顔でイレーネの肩をポンポンと叩く。「ええ、お任せ下さい。伯爵様。自分の役割は心得ておりますので。それではそろそろ失礼いたしますね」イレーネは丁寧に挨拶すると、伯爵に見送られて城を後にした――****一方その頃「デリア」では――「……またか……」手紙の束を前に、ルシアンがため息をつく。「また、イレーネさんからのお手紙を探しておられたのですか? ルシアン様」紅茶を淹れていたリカルドが声をかける。「い、いや! 違うぞ! と、取引先の会社からの報告書を探していたところだ!」バサバサと手紙の束を片付けるルシアン。その様子を見たリカルドが肩をすくめる。「全くルシアン様は素直になれない方ですね。正直にイレーネさんの手紙を待っていると仰っしゃればよいではありませんか? ……本当に、何故伯爵様はイレーネさんのことを教えてくださらないのでしょう……」その言葉にルシアンは反応する。「リカルド、お前まさかまた……祖父に電話を入れたのか?
書斎ではマイスター家の現当主、ジェームズ伯爵の声が響き渡っていた。「何!? 何故ゲオルグとイレーネ嬢が一緒にやってきたのだ!?」イレーネがゲオルグと共に現れたことで伯爵の驚きは隠せない。「ええ、お祖父様に会う前に『クライン』城に行っていたのですよ」肩をすくめて答えるゲオルグ。『クライン』城とは、先程イレーネとゲオルグが出会った城のことだ。「そうだったのか? だが何故、すぐにこの城に来なかったのだ? お前の為に今日は予定を空けていたのだぞ?」どこか非難めいた眼差しを送る伯爵。「申し訳ございません。実は今、新しい事業計画を立てておりまして自分の好きなあの城で構想を練っていたのですよ。お祖父様に提案するためにね」「また、くだらない事業計画では無いだろうな?」「ええ勿論です。今度こそお祖父様のお気に召すこと間違いないです」得意げにスーツのポケットから封筒を取り出すゲオルグ。一方のイレーネは先程から2人のやり取りを黙って見ていた。(お二人の話なのに、私この場にいて良いのかしら? それにしても意外だったわ。ゲオルグ様は伯爵の前では『お祖父様』と言うのね。私の前では『爺さん』と言っていたのに……)「分かった、ならその計画書とやらを出せ。一応見てやろうじゃないか」「ええ、是非御覧下さい。今度こそお祖父様の納得のいく事業だと思いますよ。確か跡継ぎになる条件には、『仕事で成功を収めた者』も含まれていましたよね?」ゲオルグはチラリとイレーネを見る。「ああ、確かにそう言ったな。跡継ぎ候補は平等に扱わなければならないから……ん? な、何だ……この事業計画書は……」伯爵の肩がブルブル震え始めた。「ええ、どうです? 素晴らしい計画書でしょう? これでマイスター伯爵家も、益々発展していくに間違いないですよ」自慢気に胸をそらすゲオルグ。しかし、得意になっている彼は気づいていない。伯爵が震えているのは怒りのためによるものだということを。「あの、伯爵様。どうされましたか?」異変に気づいたイレーネが声をかけると、伯爵は顔を上げた。「ゲオルグ……お前、この事業計画……本気で言っているのか?」怒りを抑えながら尋ねる伯爵。「ええ、勿論です。本気も本気ですよ。何しろ、次期当主の座がかかっているのですからね」すると……。「ふ……ふざけるなーっ!!」伯爵が大声